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Cogito cogito ergo cogito sum


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SONY 70-300mm F4.5-5.6 G SSM



暑い晩、酒に酔うと脳ミソ内で悪い虫がうごめくようだ。
わけのわからないことを考え始める。
自分が「自分」だと思っているモノは、いったい何なのだろうか、と。
答えが出るものでもないのに、グダグダと考えてしまう。

「自分」だと思うモノは自分がそう思っているだけのモノで、
自分が思う「自分」を他者に説明することは難しく、
また、他者が思っている「自分」を理解するのも難しいだろう。

虫がわいた脳ミソで考えることだから、
デカルトの "Cogito ergo sum" (我思う、ゆえに我あり)ほど深く考えることはできない。
まして、アンブローズ・ビアスが「悪魔の辞典」に書き残した、
"Cogito cogito ergo cogito sum" (我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う)は、
絶望的すぎるから酒に酔ったときでもあまり考えたくない。

心身一元論か二元論かで分類すると、私は一元論だと思う。
「こころ」があるとしたら体のどこかに存在するか、
あるいは体の何かに由来するモノだとしか思えないから、
肉体から独立したどこかに「こころ」が存在するという二元論は容認できない。
まあ、酔っ払いの考えることだから、アテにはならないけどね。

シラフのときもたぶん一元論だと思うのだが、
酔っている現在、シラフの「自分」が何をどう考えているのかなんてわからない。
シラフの人が酩酊者の考えていることがわからないのと同じだ、と我思う、
ゆえに我ありと我思う「自分」は酔っている、と我思うゆえに我ありと我思う。。。
キリがない。
"Cogito ergo sum" などと考えたデカルトは酒に酔っていたのだろう。
"Cogito cogito ergo cogito sum" のビアスに至っては、二日酔いに違いない。

そういうわけで、肉体が滅びると同時に「こころ」も失われるものだと思う。
死んでも「こころ」だけが他の何かに継承されるとしたら、オカルトである。
ただし、そう思う「自分」がいったい何なのかよくわからない以上、
「こころ」の問題を考えても正解に辿り着けるとも思えないのだが。

こういうとき、うちの奥さんはひとつの解答を暗示した。
お酒を飲んで気持ちよくなったら、アタシにチューして。
理由も目的も「あとからついてくる」からアタシを抱きしめて。
それが奥さんの理屈であった。
実存主義である。たぶん。

その奥さんが永眠してから一年以上が経過した。
私は、奥さんが死んでしまったことを上手に理解することができなくて、
気持ちをどのように整理したらよいのかも、わからずにいる。
いい歳こいたオッサンは、ガラにもなく、
死んだ奥さんのことになると虚勢を張る元気もでない。

街を歩いているとき、奥さんの手を探して右手が宙をさまようことがある。
いつも手をつないで歩いていたから、そこにあるはずのものを探してしまうのだ。
延髄反射といえるかもしれない。
そういった些細な行動も含めて「自分」が構成されているのだろう。

肉体としては、あるいは物理的には、うちの奥さんはもう存在しない。
一元論によれば肉体ととも「こころ」も失われたことになる。
それでも、私の思う「自分」の中に「奥さん」がいるのは、どういうことなのか。

死んでしまったことが上手に理解できないのは、
「自分」だと思っている範囲の内側に「奥さん」が存在するのに、
実体に触れることができないからだろう。
と、我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う、なのである。


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ビル・エヴァンス(Bill Evans) / We will meet again (for Harry)
生前、うちの奥さんが愛したビル・エヴァンス・トリオの名演。
たくさんあるビル・エヴァンスのレコードの中で、この演奏がいちばん好き。
アルバムタイトルは "You must believe in spring"
by hikihitomai | 2012-07-31 21:00 | 生き物
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